八甲田山雪中行軍遭難資料館見学記録


 2011年9月3日(土曜日)


 三沢基地航空祭の見学に合わせて、青森市にある八甲田山雪中行軍遭難資料館を見学してきました。
 初めて訪れた青森県でしたが、自宅から片道430km以上もあり、とても遠かったです・・・。

 八甲田雪中行軍遭難事件は、明治35年1月、旧日本陸軍第八師団歩兵第五連隊(青森隊)が八甲田山中において、耐寒訓練中に遭難した事件であり、訓練に参加した将兵210名中199名が死亡した世界山岳遭難史上最悪の惨事と言われています。
 この事件の背景には、当時緊張関係にあったロシアが青森北部の交通を遮断した場合、弘前あるいは青森に配置された連隊が、八甲田山付近を経由して移動することが検討されていました。
 青森隊の八甲田山雪中行軍訓練は、対ロシア戦を想定した冬期戦に備え、耐寒訓練と物資輸送の可否についての研究が目的だったとされています。
 青森隊が出発する3日前の1月20日、第三十一連隊(弘前隊)の37名の将兵が八甲田山の雪中行軍に出発し、一人の犠牲者も出さずに12日間を掛けて224km余りの全行程を踏破していますが、青森隊の壊滅と弘前隊の成功について、後に様々な要因が指摘されています。
 八甲田山雪中行軍遭難事件は、ウィキペディアなどで解り易く解説されているので、参考にして下さい。
 極寒の山中で、時間の経過とともに増加して行く犠牲者の壮絶な状況が読み取れます。

 八甲田山雪中行軍遭難資料館には、旧資料館から引き継いだ、八甲田山雪中行軍遭難の史実に関する資料が展示されているほか、雪中行軍の行われた当時の時代背景から行軍計画、遭難や捜索の様子などがパネルや模型、映像などで解説されています。
 資料館と幸畑墓苑では、市民ボランティアの方が事件の概要や施設の案内をしてくれます。

 八甲田山雪中行軍遭難資料館については、こちらのホームページで紹介されています。
    http://www.moyahills.jp/hakkoda/

 資料館は、青森市内から比較的近い距離にあります。
 資料館からは八甲田山連峰を望むことができます。
 「八甲田山雪中行軍遭難資料館」は、平成16年7月に改築された新しい施設です。
 幸畑墓苑の一角に資料館があります。
 日清・日露戦争やアルシャン(現在の中華人民共和国内モンゴル自治区)駐屯部隊の戦没者などの多く慰霊碑があります。
 玄関ホールに建てられた後藤房之助伍長の銅像(レプリカ)です。
 行軍開始から5日目、後藤伍長は捜索隊によって発見されました。
 発見時には、目を見開いたままの仮死状態で、銅像のような姿勢で立ち続けていたと言われています。
 救出された後藤伍長の証言によって、遭難の全容が明らかになり、本格的な捜索活動が開始されることになりました。
 実物の銅像は、資料館から10km程離れた馬立場の頂上に歩兵第五連隊第二大隊遭難記念碑として建立されています。
 館内は、当時の日本の情勢から行軍が行われることになった経緯、行軍の状況や装備品、捜索状況、その後の生存者など事故に関する一連の解説がされています。  初めに、遭難事故について解説したビデオ映像を見てから、館内を見学すると解り易いと思います。
 青森隊と弘前隊の雪中行軍の様子を再現した模型です。
 八甲田山では、零下20℃を下回ったと見られています。
 行李隊は、物資を積載した80kgのソリを4人で引きました。
 ソリは平地を引く目的のもので、斜面では谷側に横滑りするため不向きでした。
 この輸送手段は、行軍速度を著しく低下させ、悲劇に結びつく要因にもなりました。
 青森隊は露営するために、深さ約2.5mの壕を掘りましたが、天井を覆うことが出来ずに厳しい寒さに襲われました。  昼食に握飯、小食用にもちを持参しました。
 握飯は石のように硬く凍りついて、ほとんど食べることができませんでした。
 凍傷を防ぐために、足の指に唐辛子を砕いたものを付け、油紙を巻いて水分の進入を防ぐ方法もありました。
 弘前隊では、十分な対策が取られていました。
 革靴の複製品です。
 生存者は、「革靴を履いていた者は全部凍傷に冒されてしまった」と伝えています。
  
 写真左側 : 当時の雪中行軍時の服装と装備です。
 写真右側 : 陸上自衛隊の冬期装備(パネル写真)です。
 驚くべき事に、防水性の無いフェルト生地のコートの下には、夏服を着用していたようです。
 外套や帽子、背嚢を着用することができます。
 背嚢は小さくて軽く、装備品をあまり携行できません。
 外套は重く、水分を吸収するとさらに重くなり、動き難くなったと思われます。
 時系列に沿ったテーマごとにパネルで説明されているので、解り易くなっています。
 写真のパネルは、後藤伍長が発見され、大規模な捜索隊が編成されるに至った状況を説明しています。
 僅かな生存者は、遭難の状況を後世に伝えています。
 生存者の多くは凍傷によって、両手足の切断などの障害を負うことになりました。
 捜索隊が使用した装備品です。
 数々の遺品が展示されています。  イタリアミラノ市で発行された新聞に掲載された挿し絵です。
 この事件は、海外でも関心が高かったことが伺えます。
 第五連隊が当時発行した遭難事件の記録や、雪中行軍遭難を伝える新聞記事などです。  同じ時期に第三十一連隊(弘前隊)の37名は、1人の犠牲者も出さずに、11泊12日を掛けて八甲田山周辺224kmを踏破しています。
 日露戦争時の資料も展示されています。
 写真は戦闘解説図で、激戦地となった黒溝台付近の陣地配置状況が描かれています。
 軍事全豹、野外要務令、陸海軍喇譜です。
 資料館の隣には、幸畑陸軍墓地があります。
 八甲田山で亡くなった将兵の墓標が整然と並んでいます。
 墓地の中央には慰霊碑が建立されています。
 写真左側 : 凍死軍人英霊碑
 写真右側 : 明治天皇御製碑
 多目的広場には、殉國英霊之塔が建立されています。

 八甲田山の遭難事件には、現代日本にも見られる政治や企業の失策が表れているように思えました。
 無責任な官僚主義、間違った施策が独裁的に押し進められる組織体質、希望的観測に縋って機能しない危機管理の在り方、困難な問題の先送りなどが重大な問題を引き起こして、決して許されてはならない人命の軽視に繋がっているように思えます。
 八甲田山雪中行軍遭難事件は何故発生したのか? 青森隊と弘前隊の明暗を分けた理由は? 様々な疑問が持たれると思います。
 ビジネス誌ですが、平野喜久著書の「全滅型リーダーは誰だ! 八甲田山遭難事件に学ぶリスク・マネジメントのケーススタディ」では、解り易く検証しています。
 この書籍はネット上に公開されており、下記のアドレスからPDFファイルを閲覧することができるので、興味を持たれれば閲覧することを勧めます。
    http://www2u.biglobe.ne.jp/~hiraki/h-front.htm