防衛省市ヶ谷地区見学記録


 2011年8月29日(月曜日)


 東京都新宿区にある防衛省を見学してきました。
 防衛省市ヶ谷地区には、防衛省本庁舎などが所在し、日本の国防機関の中枢となっています。
 戦後の官公庁建設では最大規模で、約23ヘクタールの広大な敷地には、幾つもの庁舎が建ち並び、約1万人の職員が勤務しています。

 防衛省では、市ヶ谷地区の施設の一部を一般公開しており、平日の午前と午後の各1回、定時見学が行われています。
 午前と午後の見学コースは一部が異なりますが、案内係員によれば、午前は防衛省、午後は自衛隊を取り上げており、個人的には午前を勧めますと言うことだったので、午前のコースを見学をしてきました。
 簡単に見学コースを順番に説明すると、儀仗広場や庁舎の説明、市ヶ谷記念館の見学、厚生棟での自衛隊関連グッズや記念品などの買い物、屋外ヘリ展示場、メモリアルゾーンの見学となっています。
 見学時には、見学場所ごとにパンフレットが配布されるので、参考になります。

 見学にあたっての写真撮影は、一部に制限があります。
 市ヶ谷記念館内での撮影は、フラッシュの使用が禁止されており、厚生棟内での撮影や見学コースからの庁舎内の撮影などが禁止されています。

 防衛省の見学には事前予約が必要で、様々な注意事項があるので、事前に防衛省のホームページで確認しておくことを勧めます。

 防衛省のホームページと市ヶ谷地区見学の案内はこちらです。
    http://www.mod.go.jp/index.html
    http://www.mod.go.jp/j/publication/events/ichigaya/tour/index.html

 正門付近の様子です。
 敷地は東京ドーム約5個分の広さがあり、地上から全体を写真に収めることはできません。
 正門の状況ですが、警備は厳重です。
 多くの見学者が集まっていました。
 庁舎D棟です。
 装備施設本部、技術研究本部、防衛監察本部が入っています。
 この日は、イギリス軍高官が来庁していました。
 その高官が使用した自動車と思われます。
 儀仗広場には、歓迎セレモニーの終了から間も無いので、儀仗隊や音楽隊などが集まっていました。  儀仗広場には、英国・日本国旗が掲揚されていました。
 このように国旗が掲げられることは、非常に珍しいことだと言うことです。
  
 写真左側は庁舎A棟、写真右側の通信鉄塔の周辺の建物が庁舎B棟・C棟です。
 A棟は防衛省の中枢で最大の建物であり、地上19階、地下4階、屋上にはヘリポート2基があります。
 D棟、A棟、C棟、B棟の順に庁舎の前を通り過ぎると、市ヶ谷記念館に辿り着きます。
 市ヶ谷記念館は、防衛省が市ヶ谷に移転した際、現在の場所に建物の一部が移転修復されたものです。
 陸軍士官学校や大本営陸軍部、陸上自衛隊東部総監部などとして使用され、東京裁判の法廷や三島事件の現場となった歴史的な建造物と言えます。
 市ヶ谷記念館の出入口です。  主玄関ホールに展示された「旧防衛庁」の砲金製看板です。
 移転前に使用されていたものです。
 大講堂です。
 床は約7,200枚のナラ材が使用されていますが、創建当時の部材を約94%使用して復元しています。
 正面は演壇です。
 初めにビデオが上映され、市ヶ谷台の歴史が紹介されます。
 映像の撮影は禁止されていました。
 館内は薄暗いですが、天井の照明は昭和2年の建設当時の明るさを再現しています。
 二階には、旧陸軍大臣室、旧便殿の間があります。
 演壇です。
 天皇陛下の玉座となる場所とあって、豪華で細部に凝った作りになっています。
 講堂の右側には、関連資料が展示されています。  展示品の一部です。
 化粧箱の文字から、明治時代に竹田宮恒久王殿下が使用した物品や献上品のようです。
 昭和12年、進水式記念として、横須賀鎮守司令長官より竹田宮恒徳王殿下に贈呈された空母飛龍の模型です。  戦艦比叡の進水記念品です。
 映画「硫黄島からの手紙」でも知られる栗林忠道中将の写真です。
 硫黄島守備隊を指揮し、大戦末期の主要戦において、唯一アメリカ軍に対して日本軍を上回る損害を与えています。
 同じく栗林中将の写真です。
 専門書籍などにも掲載されている写真です。
 写真左側は、大本営に送った決別電報です。
 写真右側は、守備隊に送った最後の指令です。
 「・・・戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ・・・兵団ハ本十七日夜総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス・・・最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ・・・」と書き残されています。
 日露戦争前後に撮影された写真です。
 当時の日本陸軍の最高主要人物が写っています。
 装備品も展示されています。
 将校用のためなのか保存程度は良好です。
 東京裁判で日本人被告の無罪を主張したパール判事の意見書です。  旧日本陸軍の制服も展示されています。
 写真右側は冬服、写真左側は夏服です。
 写真右側は船舶中佐の制服、写真右側は待従武官の制服です。  梅津美治郎陸軍大将愛用の軍刀です。
 内山小二郎陸軍大将愛用の指揮刀です。  荒木貞夫陸軍大将愛用の軍刀です。
 日露戦争記念の軍刀ということです。
 パラオ諸島アンガウル島から回収られた三十年式銃剣です。
 1944年10月、この島を守備していた日本軍は玉砕しています。
 四四式騎銃に装備されていた銃剣と思われます。
 旧陸軍大臣室の入口です。
 戦後は、陸上自衛隊東部方面総監の執務室として使用されました。
 東條英機陸軍大将が使用した実印です。
 旧東部方面総監室内から撮影したバルコニーです。
 昭和45年、三島由紀夫は、ここから自衛隊に決起を呼び掛ける演説をしました。
 矢印で示した部分は、三島事件の際にドアに付けられた日本刀の痕跡です。
 同じく日本刀の痕跡です。
 旧陸軍大臣室は、三島由紀夫が自決した部屋でもあります。
 大講堂2階からの様子です。
 敷地内には広いグランドもあります。
 写真には写しませんでしたが、自衛官が訓練を行っていました。
 白色に塗装された1/2tトラックだけが並んでいます。
 屋外ヘリ展示場です。
 多用途ヘリコプターUH-1Hが展示されており、コクピットに座ることもできます。
 メモリアルゾーンです。
 この場所には、市ヶ谷台に点在していた記念碑等が移設されて整備されています。
 自衛隊殉職者慰霊碑です。
 殉職者は1,800人を越えるそうです。
 写真右側は庁舎E棟、写真左側は庁舎A棟です。
 ここを通り過ぎると見学は終了します。

 写真は、制限下で撮影した限定されたもので、大勢の見学者が一緒だったので撮影できなかった部分もあることを断っておきます。
 自衛隊は、東日本大震災の災害派遣活動で注目を集め、国家防衛以外の国民保護にも期待が寄せられています。
 自衛隊の前進である警察予備隊が創設されてから約60年、幸いにして内戦や治安出動などの経験も無く、平和な時代を過ごしてきた日本ですが、自衛官の殉職者が1,800人を越えることには驚かされました。
 東日本大震災での災害派遣では、数名の自衛官が殉職していますが、これまでに国家主権や国民保護の重責を遂行した尊い犠牲なのかもしれません。
 昨今の極東アジア情勢を見れば、自衛隊や日米同盟が無ければ、日本国土は近隣国に北方・南西・日本海の島嶼が切り取られ、主権が維持できなかったとの見方もあります。
 戦争の無い平和な世界は理想的なことですが、世界には完全な非武装中立で独立した先進国は存在せず、日本の平和は、国防や平和活動を担ってきた自衛隊の高い練度や尊い犠牲によって、維持されてきたことを改めて認識しました。