東日本大震災体験記録


 東日本大震災により亡くなられた方々のご冥福を深くお祈り申し上げます。
 被災された皆様に心よりお見舞い申し上げるとともに、被災地の一日も早い復興を望みます。

 私は、震災発生当時に、福島県いわき市の南部に住んでいました。
 いわき市でも、津波の被害によって多くの死者・行方不明者や家屋損壊などの被害を受けています。
 また、いわき市の一部が、福島第一原発から30km圏内に掛かるため、いわき市全体が物資不足や復旧の遅れなどの影響を受けました。
 私は、震災の被害は少なったのですが、当時の記録や写真を元にして、東日本大震災の体験と復興の様子を体験記録として、日常生活からの体験をブログのように更新して紹介したいと思います。
 内容は、このホームページの特色に合わせて、ミリタリー関係の記事を強調しています。
 掲載した写真は、日常生活を通じた機会に撮影したもので、ホームページに掲載する目的として、被災現場に立ち入ったものではありません。
 被災地の写真は、無暗に掲載することを控えるとともに、写真の一部には修正を加えたものもあります。
 また、震災後の世情などを織り交ぜるため、無関係な写真なども加えています。
 文章は、短文のため説明不足ですが、読み難くなるため、長文を避けることにします。
 悪意や中傷の意図などは無く、個人的に感じた印象を表現しているもので、専門的知識や文献などから分析したものでもありません。

 私は、東日本大震災が発生した2011年3月11日には、福島県いわき市南部に住んでおり、それから約2ヶ月後の2011年5月15日に福島市に転居しました。
 いわき市では、津波により大きな被害を受けており、その直後に発生した福島第一原子力発電所の事故では、周辺市町村は深刻な放射線被害を受けています。
 福島第一原発から、いわき市の前住所までの距離は約59km、福島市の現住所までは約60kmあります。
 下の地図には、震源地や福島第一原発、私が住んでいた場所を × で表示しましたが、地理的状況が分かると体験記録の説明も分かり易いと思います。
 

 2011年3月11日(金曜日)

 午後2時46分発生、震源地 宮城県沖、マグニチュード9、死者・行方不明者2万人以上・・・
 未曾有の大震災は発生した時に、私はいつもと変わらず、勤務先の建物内で仕事をしていました。
 廊下から携帯電話のアラームのような音が聞こえてすぐに、誰かが「大地震が来ますよ。」と話すのが聞こえた。
 地震なんて起きる訳ないだろう・・・と考えもしないで聞き流したが、その直後、建物が大きく揺れた。
 机が大きく移動して、棚が倒れた。 随分と長い時間に感じられた。
 鉄筋コンクリートの堅牢な建物の中だったので、以外と冷静でいられたのだと思うが、外の様子が気になって、2階から見回した。
 幸い視界内には、倒壊した建物は見られなかったが、長い揺れが何度も続いた・・・
 電線は大きく揺れて、今にも引きちぎられそうだった。
 突然、大きな爆発音が聞こえて、空気中を伝わってきた振動が全身と鼓膜を震わせた。
 目の前にある火力発電所から大きな煙が上がっていた。
 後に知ることになったのですが、近辺の工場では爆発事故、人家火災、津波の被害も発生していました。



 地震発生直後、爆発音と大量の煙を上げた常磐共同火力勿来発電所


 2011年3月12日(土)

 いわき市岩間町の様子を目にしました。
 海岸沿いには、背丈よりも高いコンクリート製の堤防が構築されていましたが、津波によって押し倒され、道路に舗装されたアスファルトもめくれ上がっていました。
 軒を連ねていた多くの家屋は、津波によって倒壊し、製材所に保管されていた大量の材木は、遠くまで押し流されていました。
 海岸付近の一帯が、絨毯爆撃でも受けたような惨状となっており、津波の被害の大きさと深刻さが感じられました。
 この日、福島第一原子力発電所1号機で爆発事故が起きました。
 後に、放射能の甚大な被害を思い知らされることになりました。
 震災翌日のいわき市岩間町の様子です。
 背丈以上の堅牢なコンクリート製の堤防が、根元から倒壊しています。
 堤防が倒壊し、アスファルト舗装が剥がれ、瓦礫や押し流された自動車が道路を寸断しています。
 多くの住宅が津波に押し流され、瓦礫が散乱しています。  倒壊した家屋の跡を探す被災者
 津波によって重機も横転しています。  大量の瓦礫が、足を踏み入れることを困難にしています。


 堤防が倒れて、道路を寸断しています。
 道路沿いの住宅は津波で押し流されています。


 2011年3月13日(日)

 原発事故による放射能の影響が心配されます。
 インターネットで原発から自宅までの距離を計測したところ、福島第一原発からは59km、福島第2原発からは48kmでした。
 原発から余りにも近い・・・。
 放射能から身を守るためには・・? 日常生活を送りながら完全に遮断することは不可能なので、出来る限り遠くに避難するしかないと思います。
 原発から近い場所に住み続ける限り、余命時間のカウントダウンのスピードを早めるかのように、確実に寿命を縮めることになると思います。
 私には被災者の救助や復興への責任があるので逃げることは出来ない。
 現状で可能な防護対策を取りながら、生き伸びる手段を尽くすしかない。


 2011年3月14日(月)

 福島第一原発3号機が爆発しました。
 コンビニやショッピングセンター、飲食店、ガソリンスタンドなど、ほとんどの商店は閉店しています。
 交通量は非常に少なく、僅かに見かける歩行者は、マスクと帽子で放射線から身を守っています。
 大気中に拡散した放射線を恐れて、いわき市から避難したり、外出を躊躇っていることや、ガソリンが販売されていないことが、その理由です。
 自宅には、肉、魚、野菜が残り少ないものの、米はあるので、数日は食いつなぐことができそうです。
 手元には、若干のミリメシや保存食も残っているので、電気やガスの供給が停止したとしても、少しの間は、空腹を凌ぐことができます。



 手元に残っていたミリメシの一部
 美味ければ、災害時の保存食としては最適です。
 災害に備えて少しでも保管しておけば、安心感が持てます。


 2011年3月16日(水)

 夕方、雪が降りました。
 広島と長崎に原爆が投下された後には、黒い雨が降り、この雨を浴びた者は、放射線障害によって、苦しんで死んでいったと言われています。
 真っ白に吹雪いていたこの雪にも、放射能を帯びていると思えます。


 2011年3月17日(木)

 テレビでは、福島原発3号機に放水する自衛隊のヘリが放映されていました。
 チェルノブイリの原発事故が示すように、もしも原子炉が損傷すれば、放射性物質が拡散し、国土の大部分が人の生きることが出来ない死の荒野と化すのかもしれない。
 放射線対策は講じているとは思いますが、死期を早めることは覚悟の上で、日本が直面している危機的な状況に、多くの国民の生命を守るため、危険を顧みずに戦っています。


 2011年3月18日(金)

 僅かですが、自由な時間が取れました。
 屋外での放射線の不安はありますが、食料の残りも少なくなっているので、買い物に行くことにしました。
 ガソリンスタンド前の道路は、遠くまで給油待ちの自動車が列を作っていました。
 ショッピングセンターも入場者数、入場時間の制限をしているので、買い物客が長蛇の列を作っています。
 コンビニ、銀行、飲食店など、ほとんどの店は閉まっていますが、小規模店では、在庫がある限り営業を続けると言って頑張っていました。



 非常食セットが入手できました。
 内容は、玄米がゆ2袋、玄米小豆がゆ1袋、じゃこいり野菜1袋、甘辛豚肉1袋です。


 2011年3月19日(土)

 近所の公民館では、安定ヨウ素剤が配給されました。
 配給には、否定的な意見も聞かれましたが、原発の状況が予測できない以上、市民を保護するために最悪の事態を想定して、安定ヨウ素剤の配布に踏み切ったいわき市の対応は間違っていないと思います。
 安定ヨウ素剤は、放射線障害から身を守れる万能薬ではありません。
 放射性ヨウ素による内部被曝にのみに、一定時間内に限られた効果が期待されるだけで、副作用のリスクも伴います。



安定ヨウ素剤です。



安定ヨウ素剤と一緒に配布された注意書きのコピーです。


 2011年3月21日(月) 春分の日

 雨が降っていますが、降雨による放射能の拡散が心配されます。
 県内では、水道水から放射性物質が検出されました。
 放射能は、飲料水、農作物、海産物などを汚染して、人間が正常に生存できない環境に変えてしまいます。


 2011年3月22日(火)

 雨が続いています。
 いわき市錦町の海岸からは、洋上を北進する「おおすみ型輸送艦」が見られました。
 「おおすみ」は、輸送用エアクッション艇(ホバークラフト)を搭載していますが、3月18日には、このホバークラフトを使用して、いわきサンマリーナの海岸に救援物資を陸揚げしています。



 いわき市錦町の沖合を北上する艦船
 右側は、海上自衛隊の「おおすみ型輸送艦」です。


 2011年3月23日(水)

 東京都内の浄水場の水から、放射性物質が検出されました。
 大気中を浮遊していた放射性物質が、雨に溶け込んで集まり、高い計測値となったようです。
 放射線が基準値を超えて検出されたとして、福島県産野菜の出荷と摂取の自粛が指示をされました。
 約50品目もの、多くの農作物が対象になります。
 いわき市内のショッピングセンターは、店頭に陳列された食料品の品数がとても少ない。
 ガソリンスタンドは、前日深夜から長蛇の列で、入手も難しくなっています。
 ガソリンの残量に不安がありましたが、食料品の確保もままなならないため、茨城県日立市に食料品の買い出しに行きました。
 高萩市以南のショッピングセンターでは、1世帯につき豆腐1個、米1袋などの販売制限はありましたが、混雑は無く、レジの待ち時間などもありませんでした。


 2011年3月24日(木)

 震災から13日が経過しました。
 大きな被害を受けた、いわき市岩間町では、行方不明者の捜索が続けられています。
 震災から13日後の岩間町の様子です。
 沿岸の道路は、倒壊した堤防が除去され、仮設道路が敷設されていました。
 沿岸部を捜索する航空自衛隊の救難捜索機「U125-A」
 低空を低速で飛行して、行方不明者の捜索を行っています。  いわき市岩間町には、震災直後の早い時期から自衛隊が派遣されていました。
 写真は、新潟県高田駐屯地から派遣された第13旅団です。
 行方不明者の捜索を行っています。
 重機で倒壊した建物を解体した後、人力で瓦礫を撤去します。
 非常に大変な作業です。

 被災を免れた家財道具にビニールシートを掛けて保護しています。
 災害派遣活動は、行方不明者の捜索から財産の保護まで多岐に渡ります。


 2011年3月26日(土)

 ドラッグストアが開店していました。
 混雑もなく、店内にはミネラルウォーターも豊富に並んでいました。
 地震による広範囲の断水と、原発事故による水道水への放射性物質の混入の不安から、ミネラルウォーターも入手困難でした。
 ガソリンは以前として入手困難ですが、少しずつ復興が進んでいることが感じられました。


 2011年3月27日(日)

 いわき市南部にある小浜町は、山間部に小さな漁港や漁村、海水浴場などがあります。
 この地区でも、津波によって漁船が打ち上げられたり、家屋が倒壊するなどの大きな被害を受けています。
 狭い小川には、津波が逆流して、大量の瓦礫を押し流していました。



 いわき市小浜町の様子です。
 河口から600m近く離れた場所ですが、津波が小川を逆流して、大量の瓦礫が流されています。


 2011年3月29日(火)

 震災から19日目
 行き着けラーメン店が営業を再開していました。
 震災発生後から粗末な食生活を送っていましたが、久々の美味しいラーメンの味に復興の明かりが感じられました。


 2011年3月30日(水)

 原発付近からプルトニウムが検出されました。
 水蒸気爆発が発生した福島原発3号機では、プルトニウムを含んだMOX燃料が使用されていたので、燃料が漏れていたことになります。
 プルトニウムは、放射線の危険性に加え、強い毒性があると言われていますが、どれくらいの範囲で飛散しているのか気になります。


 2011年4月2日(土)

 ガソリンスタンドの給油待ちの長い車の列は見られなくなりました。
 ガソリンの供給が回復したことや、休日ということもあり、主要道路は渋滞しています。
 いわき駅前は、鉄道が復旧していないことや、放射線を心配してのことか、人通りは非常に少ないです。


 2011年4月11日(月)

 震災から1ヶ月
 夕方から、激しい雷雨になりました。
 午後5時16分に、震度6弱の大きな地震が発生しました。
 震源地はいわき市南部です。
 いわき市南部では、土砂崩れが発生して、数名の犠牲者を出しています。
 大規模な停電が発生して、非常灯で薄暗い夜を過ごしました。


 2011年4月12日(火)

 午後2時7分、震度6弱の大きな地震が発生しました。
 震源地はいわき市南部でした。
 2日続けての大地震に、今後の余震や津波の発生、復興への支障などが心配されます。


 2011年5月5日(木)

 テレビでは、多くのボランティアが、ゴールデンウィークの休暇を利用して、福島県内の被災地で活動している様子が放映されていました。
 ボランティア活動の内容は様々ですが、多くの場合は、過酷な肉体労働となります。
 埃が立ちこめ、衛生状態も悪い中で、ガレキ撤去を行う支援者の方々には、頭が下がります。


 2011年5月18日(水)

 仕事の都合でいわき市から福島市に転居しました。
 いわき市から離れたことで、気持ちの上で一応の区切りがついたように思えました。
 福島市は、いわき市よりも高い空間放射線量が計測されています。
 東京電力では、現在も原発から放射性物質が漏れ出して飛散していることを否定していません。
 原発の安定化と放射線量の低下が無ければ、復興が終わることはありません。
 今後の作業を見守るしかありません。


 2011年5月27日(金)

 南相馬市に行く機会がありました。
 ここには、「精鋭無比」を行動理念とする「第1空挺団」が派遣されていました。
 第1空挺団は、約1,000名を福島県の被災地に派遣していると言うことです。
 南相馬市では、いわき市よりも復興が遅れている印象を受けました。
 震災から2ヶ月半近くが経ちますが、営業を再開してる商店は少ないうえに、営業時間を短縮している店舗も幾つか見られました。
 震災の被害の大きさや、原発の警戒区域による道路や鉄道の寸断が、物流の大きな障害となっていると思われます。



 南相馬市民文化会館「ゆめはっと」には、第1空挺団の多くの車両が駐車していました。


 2011年6月19日(日)

 福島市内の観光果樹園で、さくらんぼを食べてきました。
 福島市は、桃や林檎、梨、さくらんぼなどの果物の産地です。
 先日放映されたニュース番組では、今が食べ頃で収穫時期を迎えていますが、震災の影響で観光客が減少していることを伝えていました。
 私が行った果樹園では、遠方の県外ナンバーの観光客が多く見られましたが、ニュースを見て観光に来たものと思えました。
 この日で高速道路料金上限千円が廃止されましたが、東北各地の観光客減少に拍車がかからないか心配されます。
 震災の影響は、多方面に暗い陰を落としていますが、福島の果樹園は、今年も変わらずに営業しており、甘いさんくらんぼの実を付けていました。
 香夏錦、佐藤錦、ナポレオンの3種類のさくらんぼの味覚を楽しむことができました。
 1本の木に、沢山の実を付けます。
 真っ赤に熟れた新鮮なさくらんぼは、甘くて食べ頃でした。


 2011年7月28日(木)

 東京都練馬区にある陸上自衛隊広報センターを見学してきました。
 東日本大震災の災害派遣活動の写真が展示されていました。
 見覚えのある場所の被害の様子を写真で知ると心が痛みます。
 1階イベントホールには、東日本大震災の災害派遣活動の写真が展示されていました。  福島第一原発から30km圏内での行方不明者捜索の様子などです。


福島第一原子力発電所の事故での活動状況です。


 2011年7月29日(金)

 茨城県の予科練平和記念館を見学してきました。
 茨城県北部も津波によって大きな被害を受けています。
 予科練平和記念館です。

 陸上自衛隊土浦駐屯地にある「雄翔館」です。
 山本五十六元帥像があります。


 2011年8月12日(金)

 26年前の昭和60年8月12日、群馬県内の御巣鷹山付近に日本航空123便が墜落しました。
 この事故では、乗員乗客524名のうち520名が死亡し、国内で発生した最悪の航空機事故と言われています。
 ゲンブンマガジン別冊01号は、当時の記録を基に、123便墜落事故で災害派遣された自衛隊の活動を描いています。
 墜落現場に派遣された自衛隊員が、バラバラになった遺体や、真夏の高温で腐敗が進行した遺体の回収作業を行い、任務終了後にPTSDの苦しみを引きずり、依願退職するまでが描かれています。
 事実として、御巣鷹山での作業に従事した多くの自衛官は、悲惨な体験からPTSDに悩まされたと言われています。
 この震災では、自衛隊の心温まる活動が報じられていますが、行方不明者捜索の名目で遺体回収に従事していることからも目を背けることはできないと思います。



GENBUN MAGAZINE 別冊01 「御巣鷹山の暑い夏」


 2011年8月27日(土)

 長野県と東京都に2泊3日の旅行をしました。
 長野県では、善光寺などの史跡の他、松代象山地下壕、軽井沢付近を観光しました。
 震災から5ヶ月半、被災地の復興が進まない状況で、旅行に出掛けることは気が咎める思いもあります。
 長野県は、東日本大震災発生の翌日に発生した長野県北部地震や、その後の余震によって、大きな被害を受けています。
 海の向こう側に見えるのは、東京電力柏崎刈羽原子力発電所です。
 北陸自動車道米山SAからの撮影ですが、人口密集地から近いように感じました。
 観光名所の善光寺本堂です。
 この震災から自分や家族が無事だったことを感謝して、震災からの復興を祈りました。
 川中島古戦場の上杉謙信と武田信玄のブロンズ像です。
 第四次川中島の戦いで、上杉謙信は武田信玄の本陣に攻め込み三太刀斬りつけると、信玄は床机に座ったまま軍配で受けたと伝えられています。

 長野市にある松代象山地下壕です。
 第二次世界大戦末期、本土決戦の最後の拠点として極秘のうちに、大本営や政府各省庁を長野県松代に移転する計画の下に構築されました。


 2011年8月28日(日)

 長野県軽井沢付近の観光です。
 日曜日ということもあって、道路には長い渋滞が発生するほど、多くの観光客で賑わっていました。



 軽井沢町にある重要文化財の旧三笠ホテルです。
 軽井沢高原の瀟洒なホテルとして乃木希典、近衛文麿を始め、政財界人・文人墨客などが宿泊や会議に利用しました。


 2011年8月29日(月)

 東京都内です。
 防衛省や靖国神社などを見てきました。
 中央では、震災復興や原発問題などの処理に狂奔していると思いますが、都内の目に映る風景からは、震災の影響は全く感じられません。 
 東京都新宿区にある防衛省市ヶ谷地区を見学しました。
 自衛隊創設以来、訓練演習や災害派遣などによる殉職者は1,800人を越えるということです。
 敷地内には自衛隊殉職者慰霊碑が建立されています。


 靖国神社を参拝しました。
 関東大震災後には、境内には多くの仮設住宅が建設されました。
 2011年9月1日(木)

 88年前の大正12年9月1日、関東大震災が発生しました。
 この日は、「防災の日」とされ、各地の自治体では防災訓練などが行われます。
 関東大震災の死者・行方不明者は10万5千人余と言われていますが、関東大震災は火災による被害が大きく、東日本大震災は津波による被害が大きいことに違いが見られます。
 内閣府が5月に発表した資料によれば、東日本大震災のいわき市の被害状況は、死者305人、行方不明者49人、全壊家屋5,174棟、半壊家屋8,712棟です。
 いわき市では、震度6弱が観測され、地震の揺れは長い時間続きましたが、それでも、地震で倒壊した家屋や火災の発生は少なく、耐震性や災害対策の整備などが実感されました。
 津波による被害を見ると、いわき市小名浜では、15時39分に3.3mの津波が観測されています。
 いわき市人口約34万人のうち、浸水範囲内の人口は3万2千人ということなので、広大な面積を津波が浸食したことになります。
 沿岸部の津波が押し寄せた地域では、その場所にあった家屋や建築物は倒壊し、自動車などは押し流され、あらゆる物が再起不能なまでに破壊されました。


 2011年9月3日(土)

 三沢基地航空祭に合わせて、2泊3日で青森県と岩手県の観光旅行をしました。
 航空祭の前日は、八甲田山雪中行軍遭難資料館や青森県立三沢航空科学館などを見てきました。
 八甲田山雪中行軍遭難資料館です。

 青森県立三沢航空科学館です。


 2011年9月4日(日)

 三沢基地航空祭です。
 災害派遣活動と震災からの復興を意識した展示が行われていました。
 油圧ショベルと20tトレーラーです。
 三沢基地に配置された北部航空施設隊の装備です。
 災害派遣活動に従事しています。
 航空自衛隊の戦闘機「F-2B」の垂直尾翼のペイントです。
 

 大型破壊機救助消防車(A-MB-3)です。
 東日本大震災で発生した福島原発事故では、原子炉を冷却するために派遣されています。


 2011年9月5日(月)

 岩手県も震災での被害が甚大ですが、今年6月に「平泉の考古学的遺跡群」がユネスコの世界遺産に登録されました。
 震災後、観光客の激減する被災地ですが、この日は平日にも関わらず、多くの観光客で賑わっていました。
 中尊寺金色堂新覆堂です。
 この建物の中に、中尊寺金色堂が保存されています。

 毛越寺の浄土庭園です。
 この庭園も世界遺産に登録されました。


 2011年9月11日(日)

 今年は旅行に出掛ける回数が多いのですが、放射線の心配が無い場所で時間を過ごしたいという意識があります。
 震災から、約半年になる福島市内の空間放射線量は、約 1.0μSv/hです。
 私の住まいは、福島第一原子力発電所から約60km離れていますが、福島市内でも特に線量が高い地域で、場所によっては、3.0μSv/hを越える所もあります。
 この数値が日常生活を送るうえで安全なのか、専門家でも意見が分かれるので、判断できません。
 今後、数年から数十年後に、放射線障害が原因と認識された死亡者や発病者の統計によって、審判されることになるでしょう。
 放射線量は、屋内外によっても数値は変わりますが、計算上では、仮に 1.0μSv/hの放射線を受け続けたとすれば、1年間で 8.76mSv/h(8760μSv/h)を受けることになります。
 一部では、一般人の年間限度は 1mSv/hとも言われていますが、僅か41日で達することになります。
 市内の様子は特に変わるものではありませんが、小学生が登下校でマスクを付けているのことが目に付きます。
 有効な対策は分かりませんが、洗濯物や布団を屋外に干さず、窓を開けて部屋を換気することも殆ど無く、飲料水や食器洗浄などには浄水器を通した水道水を使用したり、野菜などの食料品の水洗いは十分に行うなど注意しており、不自由な生活を送っています。


 2011年9月23日(金)

 会津若松市は、私が産まれ育った故郷です。
 9月の大型連休に会津祭りが開催され、メインイベントの会津藩公行列を見てきました。
 福島第一原発からは遠く、放射能汚染は少ないのですが、原発立地の福島県として、観光客は大きく減少しています。
 今年は、震災からの復興の意識が強く現れていました。
 神奈川県横須賀市から横須賀開国甲冑隊が参加しました。  三重県桑名市からは京都所司代が参加しました。
 復興を応援する気持ちを有り難く思います。
 今年は白虎寄合隊に、被災地の大熊町立大熊中学校の生徒が参加しました。

 特別ゲストに歌手の堀内高雄さんが参加しました。
 昭和61年に放映された年末ドラマ「白虎隊」の主題歌「愛しき日々」が縁で会津親善大使を務めています。


 2011年9月25日(日)

 陸上自衛隊東北方面隊創隊51周年記念行事を見てきました。
 東北方面隊は、被災地の復興活動の中心的役割を果たしました。



 東北地方に配置された陸上自衛隊各隊から約1,170名が集合しました。


 2011年10月5日(水)

 福島県から「県民健康管理調査 基本調査問診票」が郵送されました。
 福島県と福島県立医科大学が調査するもので、3月11日から7月11日までの間、滞在した場所などを調査して被曝線量を推定すると説明されています。
 問診票は、3月11日から3月25日までの間、自分が居た場所を「屋内」、「屋外」、「移動」別に1時間単位で表に記入します。
 その他に、自家栽培の野菜などを食べていれば、種類別に、量、栽培方法などを詳しく記載しなければならない。
 推定被曝線量を調査するためには、他に有効な方法は無いと思われますが、今となっては、9ヶ月前の行動を詳しく答えることは難しいと思います。

 

郵送された問診票の一部です


 2011年10月16日(日)

 陸上自衛隊福島駐屯地創立58周年記念行事を見てきました。
 東日本大震災では、被災地福島県に駐留する部隊として、被災者の救助や生活支援などの他、原発周辺地域での行方不明者捜索なども行っています。
 今回は、災害派遣活動の状況や使用された装備などが紹介されていました。
 体育館では、災害派遣活動の写真展や使用されたの装備品が展示されていました。  派遣隊員の食事です。
 左側が朝食、中央が昼食、右側が夕食で、内容は乾パンと白米の缶詰などです。
 行方不明者捜索、瓦礫撤去、物資搬送など重労働ですが、苦しい食事環境に置かれていたことが分かります。


 2011年10月29日(土)

 磐梯朝日国立公園を通る観光有料道路3路線の「磐梯吾妻スカイライン」、「磐梯山ゴールドライン」、「磐梯吾妻レークライン」の3路線は、観光風評被害の払拭を目的として、無料開放されています。
 紅葉シーズンでもあり、多くの観光客が訪れていました。 



 磐梯吾妻スカイラインの中腹付近にある浄土平駐車場付近です。
 写真は一切経山で、噴気を上げ続けています。


 2011年11月19日(土)

 原子力発電所の立地場所や、立地場所から近い市町村の電気契約世帯には、年に1度、原子力立地給付金が給付されていました。
 詳しい算定方法は分かりませんが、原発の立地場所は高く、離れた市町村は低いようです。
 いわき市に在住当時の自宅から福島第2原子力発電所までの距離は、約48kmありましたが、平成22年11月には、4,056円が給付されました。



 原子力立地給付金は、毎年11月に電気料金を支払う銀行口座に入金されていました。


 2011年11月22日(火)

 新潟県長岡市と群馬県高崎市に行ってきました。
 新潟県では、山本五十六記念館などを見てきました。
 山本五十六記念館です。  山本記念公園にある山本五十六像です。