沈船防波堤「汐風」「澤風」

 福島県いわき市の小名浜港には、昭和23年に旧日本海軍の駆逐艦「汐風」と「澤風」が防波堤を構築するために沈められました。

 このページは、2012年7月15日に撮影した汐風が沈められた場所を紹介し、その後、2014年2月9日に撮影した三崎公園に保存されている澤風のタービンを加えて紹介しました。
 今回(2021年)、これまでに公開した記事を加筆訂正し、2ページに拡大して、第1ページには、国土交通省国土地理院が公開している空中写真を引用して、沈船防波堤の歴史を解説し、第2ページには、2012年に撮影した汐風が沈められた場所と、2014年に撮影した三崎公園に保存された澤風のタービンを紹介します。
 初めに、小名浜港や峯風型駆逐艦などについて説明します。


 小名浜港

 小名浜港の歴史は、江戸時代中期まで遡り、納付米を江戸に積み出したことにより、港の基礎が築かれました。
 本格的な港湾整備は、大正7年の漁港修築工事が始まりで、昭和2年には重要港湾に指定され、港湾修築工事が開始されました。
 しかし、戦時中の混乱と財政悪化により、工事を中断したため、防波堤や砂防施設は不完全で、波風による被害が頻発しました。
 戦後、漁港整備や常磐炭田から産出される石炭輸送などのため、港湾整備が再開されることになりました。
 当時は、防波堤や砂防堤の完成は急務だったものの、建設資材の不足から、艦艇を沈める方法が取られました。
 戦後の経済発展とともに、工業港として整備が進められ、取扱貨物量は大幅に増加し、近年は水族館や観光物産館センターなどの観光施設が整備されています。

 峯風型駆逐艦

 峯風型駆逐艦は、大正6年から大正7年にかけて15隻が建造された日本海軍の大型駆逐艦です。
 当時の巡洋戦艦に対応するため、高い速力が要求されており、凌波性の改善と航続距離が延伸されています。
 昭和初期までは、水雷戦隊の主力を担っていましたが、新型駆逐艦の建造が進展したことや、太平洋戦争開戦時には艦齢20年近い老朽化と装備の旧式化のため、主として後方での船団護衛任務に当てられました。
 終戦時に残存した同型艦は4隻で、「澤風」と「汐風」は防波堤として小名浜港に沈められ、2隻は戦時賠償艦として連合国に引き渡されました。

 駆逐艦汐風

 「汐風」は峯風型駆逐艦の8番艦で、大正10年に舞鶴海軍工廠で竣工し、横須賀鎮守府籍に編入されました。
 日中戦争では、昭和12年以降、華南の沿岸作戦に参加しました。
 太平洋戦争開戦時には、第一航空艦隊第四航空戦隊に所属し、航空機が海面に不時着したときの乗員の救助や機体の回収などの任務に当たりました。
 多くは船団護衛任務でしたが、1942年4月のセイロン沖海戦では、空母「龍驤」の護衛に当たり、同年5月のミッドウェー島攻略作戦では、陽動作戦として計画されたアリューシャン攻略作戦に参加し、特設水上機母艦「君川丸」の護衛に当たりました。
 戦局の悪化と艦艇の不足から、昭和19年から翌年にかけて、人間魚雷「回天」の搭載艦に改装されました。
 この改装では、1番主砲を除く主砲と魚雷兵装は撤去され、艦尾にスロープを設けて回天4基を搭載できましたが、実戦で使用される機会はなく、呉港で終戦を迎えました。
 昭和20年10月に除籍され、同年12月に特別輸送艦の指定を受けて復員輸送に従事し、その役目を果たした後、昭和23年8月25日に小名浜港の防波堤として沈められ、その生涯を終えました。

 駆逐艦澤風

 「澤風」は峯風型駆逐艦の2番艦で、大正9年に三菱造船長崎造船所で竣工しました。
 上海事変では諸作戦に従事し、昭和10年には館山海軍航空隊の練習艦、昭和13年には予備艦、昭和14年には横須賀鎮守府練習駆逐艦となりました。
 昭和17年からは、対潜掃討や船団護衛に従事し、昭和19年12月18日には、海軍対潜学校練習艦となり、沿岸警備などに従事しました。
 昭和20年2月から対潜実験艦への改装工事が行われましたが、この改装では、主砲は4番主砲を残して撤去、1番砲跡に15cm9連装対潜噴進砲を装備、魚雷兵装は全て撤去、25mm連装機銃4基・同単装機銃4挺の増設などが行われました。
 昭和20年5には第1特攻戦隊の特攻攻撃訓練目標艦となり、横須賀において無傷で終戦を迎え、昭和23年4月に小名浜港の防波堤として沈められました。

駆逐艦「汐風」



基準排水量
 1,215t
軸速力(計画)
 38,500馬力
主機械
 ロ号艦本式缶4基、パーソンズ式タービン2基2軸
乗 員
 約154名
速 力(計画)
 39ノット
主要寸法
 102.57m x 8.92m x 2.90m (全長、最大幅、喫水)
航続距離
 14ノットにて3,400カイリ
燃料搭載量
 395トン
主要兵装
 45口径12cm単装砲4門、6.5mm単装機銃2挺、53.3cm連装魚雷発射管3基、1号機雷16個
同型艦
 峯風、澤風、沖風、島風、灘風、矢風、羽風、秋風、夕風、太刀風、帆風、野風、波風、沼風
 画像は案内板から、データはWikipediaと案内板から引用しました。

 小名浜港は広大です。 沿岸部は港湾施設が建ち並んでいるので、1号、2号埠頭などの一部にしか入ることができません。 矢印1で示した場所が「汐風」が沈められた場所です。
 このページで使用している地図と写真は、全て国土地理院ウェブサイトの地図・空中写真閲覧サービスから引用しました。
 地図と写真は、場所を分かり易く説明するために、トリミングや拡大などの加工を加えました。
 出典:国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1)
 小名浜港東側と三崎公園付近の地図です。 それぞれの場所を矢印で示しました。
  矢印1・・・・・「汐風」が沈められた場所
  矢印2・・・・・「澤風」が沈められた場所
  矢印3・・・・・「澤風」のタービンが保存されている場所
 2019年5月5日(令和元年)小名浜港1号ふ頭(埠頭)付近の様子です。 写真中央が1号ふ頭です。 沈船防波堤の歴史を分かり易く紹介するため、空中写真で歴史を遡ってみました。
 汐風と澤風が沈められた場所を推定して表示しました。 「汐風」が沈められた場所は、小名浜港第1埠頭の「いわき市観光物産センター いわき・ら・ら・ミュウ」の南側です。 「澤風」はその東側の港内です。
 2013年9月17日(平成25年)の様子です。 東日本大震災から2年6ヶ月が経過しました。 小名浜港周辺は東日本大震災の大津波によって甚大な被害を受けました。
 2012年11月25日(平成24年)の様子です。 東日本大震災から1年8ヶ月が経過しました。 次のページでは、2012年7月15日に「汐風」が沈められた付近の様子を紹介しています。
 2011年11月1日(平成23年)の様子です。 東日本大震災から7ヶ月が経過しました。
2009年10月30日(平成21年)の様子です。
 矢印で示した部分が少し濃い茶色になっていることを認識できるでしょうか。 東日本大震災の以前には、汐風が沈められた艦尾の位置に茶色のタイルが張られて表示されていたので、沈められた場所が推定し易かったのですが、当時の状況を再現して修復されませんでした。
 2003年11月18日(平成15年)の様子です。 1997年(平成9年)に「いわき市観光物産センター いわき・ら・ら・ミュウ」、2000年(平成12年)に「環境水族館 アクアマリンふくしま」がオープンして、小名浜港の観光施設が充実しました。
1996年5月14日(平成8年)の様子です。
 矢印で示した部分に細かな凹凸を認識できるでしょうか。 他のHPには、岸壁に船体の一部が写った写真が掲載されており、その状況などから「汐風」の右舷船体の一部と推定します。
1991年11月9日(平成3年)の様子です。
1886年4月30日(昭和61年)の様子です。
1982年5月23日(昭和57年)の様子です。
1975年10月17日(昭和50年)の様子です。
 1970年10月21日(昭和45年)の様子です。 時代を遡るにつれて、写真の画質が低下します。 1号ふ頭の西側には常磐炭鉱で採掘された石炭が集積されたと見られます。
 1966年10月20日(昭和41年)の様子です。 この年、いわき市では現在の「スパリゾートハワイアンズ」が営業を開始しましたが、これは国内の石炭採掘の衰退を意味します。
1961年11月2日(昭和36年)の様子です。
 「澤風」の船体が確認できます。 一度は防波堤として沈められた「澤風」ですが、昭和40年に漁港区改良のため撤去されたため、これ以後の空中写真には写っていません。 撤去された際にタービンが取り出され、三崎公園に保存されることになりました。 この写真からは、「汐風」の船体の名残は見つけることができません。
1952年11月2日(昭和27年)の様子です。
 「澤風」の船体は判別し易いのですが、「汐風」は直線のような形にしか見えないので、判別し難いです。 「澤風」は昭和23年4月2日、「汐風」は同年8月25日に沈められました。
 1947年10月28日(昭和22年)の様子です。 国土地理院が公開している1号ふ頭付近の最も古い空中写真です。 今から73年前、終戦から2年2ヶ月経過しています。 次のページでは、「汐風」が沈められた1号ふ頭と三崎公園に保存された「澤風」のタービンについて紹介します。